透明になりたいと思うことと、巨大化したいと思うことは、なんだか似ている。
『聖☆おにいさん』をきらいならともかく、本来おもしろいと思っている漫画を政治的理由からそういわないという態度は、ちょっとひねくれすぎているんじゃないか。
ぼくは、可能なかぎりそういう「漫画を巡る政治性」から離れて、無邪気に好きな作品を好きといいたいですね。
ある作品をおもしろいと思ったら、それが社会的にどういうふうに扱われている作品であれ、素直におもしろいといえる自分でありたい。
漫画を使ってセンス競争はしたくないですよ。
漫画でセンス競争はしたくない。 - Something Orange
ってあるんだけど、
“「漫画を巡る政治性」から離れて、無邪気に好きな作品を好きといいたい”
っていうのが、そういう政治性なんじゃないの?
全共闘世代やその下の世代が、作ってきた文化、オモシロ主義やサブカルや、そっから別れたおたくだとか、アンチとしてのエンタメ主義みたいな考えの流れの中に書いた人はいるんだと思うんだけど、これらの考えは、「政治を語りたくないという政治」から出発してきたもんだと思う。
高橋哲哉『歴史/修正主義』によれば、野家啓一は『物語の哲学―柳田國男と歴史の発見』において、「物語りえぬことについては沈黙しなければならない」と言う。「物語」はそれが記憶の共有を促すがゆえにたぶんに倫理的なものであり、したがってそれは「声高に」ではなく「声低く」語られるべきものである。たとえば「皇国史観」などのナショナル・ヒストリーは「物語」の倫理を「声高に」語ることから産まれる、と彼は論じている。
野家のテーゼの意味は、「物語」ることの倫理的意味を認識しながら、いわば「物語りえない」記憶や忘却に対する敬意といえるだろう。しかし、その「物語りえない」記憶に沈黙を強いるということは、高橋が言うように、それ自体ある種のイデオロギー性を含んでいるのではないだろうか?「物語りえぬことについては沈黙」し、「物語りえないもの」を祭り上げることは、それは結局のところ「物語りえないもの」の永遠なる封殺になる可能性はないか?
たとえば、「アウシュヴィッツについては語りえない」という言説が、主にポスト・モダンの思想家と呼ばれる人々によってしばしば語られてきた。ハンナ・アレントは政治による組織的な歴史の抹殺としての「忘却の穴」という概念を用いた。ナチスのような恐怖政治は、犠牲者にまつわる一切の記憶を剥奪する。そこでは、忘却されたことすらも忘却されているのである。アウシュヴィッツにはこの「忘却の穴」がいたるところに穿たれており、したがってその全貌は永久に語ることができない。
高橋は、この「忘却の穴」概念を特殊な例外的事態としない。「記憶されるべき出来事の核心に<記憶されえぬもの>や<語りえぬもの>があったとしたら、そしてそれが、われわれの歴史の肉体のそこかしこに知られざる<忘却の穴>を穿っているのだとしたら、どうなるか。」*3と彼は問いをたてるのである。「忘却の政治」がなくとも、「もはや語られえないだろうもの」はわれわれの歴史のそこかしこにあり、「忘却の穴」はそのひとつである。野家は、そうした「忘却の穴」は「神の眼」でしか見通せないからこそ「物語りえぬことについては沈黙しなければならない」と言うのであるが、高橋はこれに同意しない。なぜならばそれは、「記憶の抹消」を行った「征服者」の行為に加担することにつながるからである、と彼はいう。
「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去
引用しておいて何だけど、僕はこの文を日本の消費税率ほども分かっていない。
十年くらい前を思い出すとわかりやすいんだけど、小林よしのりの作品に関して、「政治的な意味は除いてまんがとしておもしろい」みたいなことを言っていた評論家がいてたと思う(まさに転向した世代)。
その当時の僕は、漫画の技術に関して評論するんだったら、政治的な意味をしっかり言及してくれよって思った。なぜなら、僕と同じくらいの偏差値の周りのバカたちはよしりんにコロッと騙されていたからだ。彼らは今はどうしているのかは知らないけど。
無邪気な、イノセントな、透明な思想や技術に憧れてしまうことはわからないではないけど、そっち側にいるときれいに刈り取られるよ。
NOBODY氏のポジショントーク - 地下生活者の手遊び